「大和三山」のこと

 

「山の辺の畑」からは・・「大和三山」は見えませんが・・少し竜王山の方に登ったら「大和三山」が見えます。

 

 

 

竜王山の麓から・・雪の日の「大和三山」を撮りました。白い大地に黒い森が「景行天皇稜」、その先にあるのが「箸墓古墳」、さらにその先に・・「大和三山」があります。

 

 

 

「大和三山」は・・右側から「耳成山」「畝傍山」・・左によって「香久山」になります。こちらから見ると不等辺三角形ですが、真上から見ると正三角形に位置しています。

 

1300年前「大和三山」の真ん中に・・日本で初めての都「藤原京」が造られました。藤原京は「天武天皇」が都の造営を始め、その妻の「持統天皇」が完成させた都でした。天武天皇は「壬申(じんしん)の乱」の後、新しい国づくりを進めるためには新しい都が必要だと考えたのです。

 

 

  

「天武天皇」と「持統天皇」には・・悲しい物語が伝わっています。

「天武天皇」と妻の「大田皇女」との間に「大津皇子」がいました。幼少時に母をなくした「大津皇子」は、文武にすぐれた男らしい皇子でした。「天武天皇」は「大田皇女」の妹である「鸕野皇女(のちに持統天皇)」を妻に迎え、「草壁皇子」が生まれます。「天武天皇」の後継に「草壁皇子」と「大津皇子」が競いましたが、「天智天皇」は「草壁皇子」を立太子に決定します。その後も「大津皇子」評判が良いことが「鸕野皇女」の憂いを招き、謀叛のかどで死刑に処せられ「二上山」に葬られました。
 

 

 

 

その後、「草壁皇子」は病気で亡くなります。二人の皇子(天皇の後継者)を亡くした母親「鸕野皇女」は自ら「持統天皇」と名乗り、「天武天皇」の意思を継ぎ「藤原京」を完成させました。

 

 

大和の名山「二上山」について・・

 

 

「大津の皇子」が葬られた「二上山(ふたがみやま)は・・悲しい歴史を持った名山です。大和に住む人々は・・悲運の皇子を想い・・この「二上山」を親しく見る人が多い。

 

畑から見える「二上山」・・私もその一人です。

 

 

 

大和の名山を見ながら「山の辺の道」を歩いてみませんか・・癒されますよ。

尚、大和の歴史認識に誤りがありましたらお許しください。

 

 

 

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